ありきたりな恋の結末 ※注意 これは王響の大正浪漫パラレルです。 『夏目漱石は、浪漫という言葉を生み出した。経済の自由化とともに庶民においても新時代への夢や野望が大いに掻き立てられる。いずれ俺も、この手に浪漫を掴みたい…』 表面がガサガサした藁半紙に、万年筆のインクが否応無く滲みていく。群青の文字は、紙に吸い込まれて丸々と太った黒い文字に変わっていた。 「これ、日記ですか? 王泥喜さん」 四畳一間の狭い下宿部屋で、唯一家具と呼べる座卓の前に座り込んでいた法介は、みぬきの声にぎょっと肩を震わせた。 「違うよ、みぬきちゃん。これは、短評欄に載せる原稿…って、なに覗き込んでるの!?」 「あ〜それはですね、成り行きです。」 はぁ? 法介は、嬉しそうな顔で覗き込んでいる下宿屋の娘−成歩堂みぬき−に怪訝な表情を返す。貧乏下宿屋だけでは生活が成り立たないという事で、見せ物小屋で魔術を披露しているという少女の姿は、一般の女学生とは違いかなり奇抜だ。 舶来物の纏とシルクハット、洋装のワンピースはお稚児さんのように短い。 そして、娘を見せ物小屋で働かせているという彼女の父親の姿を、法介は一度も見たことがない。みぬきに訪ねたところ『秘密任務を遂行中』だそうだ。 …胡散臭い事この上無い。 自分の実入りがよければ、こんな妖しげな下宿になど入らないのだけれど、弱小新聞社に籍を置く法介の月収もまた、驚く程に弱小なのだ。 「新聞社の方から電話があって、牙琉伯爵から時間を早めて欲しいと連絡があったそうですよ?」 うふふと笑う彼女が告げる時間に、法介は目を剥いた。年代物の腕時計は、今まさに彼女の告げる時間を指し示していたのだから。 「どうしてもっと早く言ってくれなかったの!?」 そこら辺にある書類やらなにやらを慌てて鞄に詰め込むと、鴨居に掛けてあった唯一無二の一張羅。赤いベストに腕を通す。インクがつかないようにと、捲ったシャツはそのままで依れたネクタイを締め直した。 靴、靴はどこだ。拙い、拙いぞ、この事態。 「え、だって王泥喜さん、熱心に日記を書いてるから」 「これは、日記じゃなくて、原稿!! 記事!!」 さして風も入ってこない窓を慌てて閉めて、みぬきを残したまま部屋を飛び出した。軒下の止めて置いた自転車に飛び乗ると、向かうは先日お披露目があったばかりの貿易會舘。此処の玄関にあるサロンが約束の場所だ。 ゆさゆさ揺れる前髪が、たらたら流れる冷や汗に張りついていく。 その會舘を設立した『貿易商』牙琉伯爵は、時間に厳しい潔癖な人物だと聞いている。一分遅刻した業者を門前払いにしたなんて噂が、まことしやかに法介の耳にも入っていた。土下座する勢いで折角取り付けた面会がこれでは水の泡。編集長に怒鳴られるだけでは収まらずに、荷物を纏めて田舎に帰れ!と宣言されてしまう。 内心ひいいいいと叫び声を上げながら、路面電車を追い抜け追い越せの早さで正面玄関に飛び込んだ。 ガッシャン、ガンと哀れな自転車の叫びが響く。 「遅くなって申し訳ありませんでした!」 開口一番謝罪を叫び、顔を上げた法介にその人物は小首を傾げた。 「僕、君と約束してたっけ?」 華やかなサロンを背景にしても、全く見劣りのしない男が、法介を見つめている。長い巻き毛は淡い色で何処か西洋風の顔立ち。仕立ての良さそうな黒いシャツとズボンに包まれた肢体は、スラリと長身だ。 「あの、えと…。」 雑誌で見たことがある牙琉伯爵と酷似しているものの。何処か違和感が拭えない。 「俺は、新聞社の王泥喜法介と言います。…あの今日会見を…。」 そこまで告げると、ああと男は笑った。 「おデコくんが相手記者だったのか。」 オデコ!?んだ、それは!? 愕然とする法介の顔を見て、なおもクスクスと笑う男に流石にむっとくる。元々、法介は短気な性格なのだ。カッとなれば手だって早い。顔に出さないだけで、腹の中では罵詈雑言が渦巻いている事も少なくはない。 「幾らなんでも失礼でしょ、貴方は…!「響也」」 鋭い声が場を制する。声の主は水色のスーツを身に纏った紳士。二階へと続く螺旋階段の踊り場に身を置き、威圧的にこちらを見下ろしていた。 「何をしているんですか、早く仕度をなさい。…おや、君は。」 二人の顔かたちは良く似ている。そこで、法介はやっと、この人物が『牙琉伯爵』なのだと気がついた。 「遅くなって申し訳ありませんでした。俺…。「時間はもう過ぎてしまいましたよ。」」 眼鏡を押し上げながら、溜息をつく。 「これから予定は入っているので、どうぞお引き取り下さい。」 取りつく島もない牙琉伯爵の台詞に、前髪ががくりと垂れ下がる。しかし、此処で引き下がる訳にはいかない法介が大音声を響かせる前に、響也と呼ばれた男が牙琉伯爵を見上げた。 「逢ってあげなよ、兄貴。元々はこっちの都合で時間を変えたんだろう? おデコくんだけが悪い訳じゃない。」 ね?と媚びるように首を傾ぐ男に、牙琉伯爵は再び溜息を吐いた。 「何を言っているんです。食事に出掛けたいからと時間を変更させたのは貴方でしょう。…まぁ、仕方ありません。いいでしょう。」 あっさりと意見を翻した牙琉伯爵に法介は唖然となる。その肩を響也は親しげに叩いて、兄と入れ替わりに階段に向う。 「良かったね、じゃ頑張って。おデコくん」 「…ありがとうございました。」 思い切り腑に落ちない事実を目の前に、王泥喜法介の浪漫は秘やかに幕を開けるのだ。 content/ next |